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自分の命を生き抜く

6月21日に手術して以来、全身麻酔の影響かどうかは分からないままに
認知症が更に悪化した母との付き合いは、あれからずっと続いている。
そして、今現在、母は在宅として我が家に戻って暮らしている。
全てに手がかかる。
食べることも、排泄も、入浴も、ベッドの寝返りも、
もちろん起き上がることなんてできないし、
家の中で車椅子生活をしている状態だ。

ただ、家に居ると、家族のことは分かるし、若干の記憶が甦るらしく
少しだけ懐かしい話が出来る。
好きだった歌も一緒に歌える。
そんな母の姿を見ると涙が出てくる。「嬉しい!」

猛暑、長時間豪雨、突風、恥を忘れた見苦しい大人たちの行為。
国家とは何ために存在しているのか?を、
北朝鮮、アメリカ、日本、韓国、中国、ロシア・・・
それら国家間に交錯する一部の指導者たちの思惑から考える。
今ここに確かに生きている一人ひとりの人間の
その、まさに一人として…考えてみる。

カウンセリングへの来談者は増す一方だが、
10年前の頃のクライアントとは明らかに質が変わってきている。
カウンセリングへの取り組みが真摯で、本気なのだ。
その分、気づき・変容は顕著に現れる。

「人間」は、誰もが一人ひとり自分の「命」を、
自分として生き切ろうとしているのだ。
それだけのことなのだが、そのことの為に、悩み、苦しみ、葛藤する。
時代が如何に変ろうと、国家が他国と争おうと、そこに暮らし生きている
一人ひとりには、それ以上に身近な自分自身の問題がある。

生きましょう。とにかく、生きましょう !!
恐らく世の中はと言うか人間社会は、小池さんの掲げる「希望の党」のように
輝かしい社会に向かっているなんて楽観的な考え方は、
とてもではないが持てない。。。けれど・・・。

それでも、諦めないで、生きましょう!!
とにかく生き抜きましょう!

「もういいよ、よく頑張ったね。」と、自分の命が尽きるその時まで、
「生」の終わりに必ず訪れる「死」のその時まで、
せめて自分の命にだけは責任を持って、
命を生き抜きましょう!!

脱原発!! 今の日本に於いて、命の為にはこれ以外は無いと考えている。

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by h-c-c | 2017-09-25 18:11 | Comments(0)

無限の住人

暦の上の大型連休が、やっと過ぎ去った。
私には、連休も何もなく、ずっと働いていた。
連休中に、講座、ワークショップ、カウンセリング、出張の評価鑑定。
連日何らかの仕事に絡み、家族のために食事を作り、
飛んでくる黄砂の合間をぬって洗濯物を干したり、母を見舞ったりした。

そんな中でも、映画を見に行った。
木村拓哉君主演の『無限の住人』だ。
んんんん…、正直言って、感想は・・・。

私がここ近年観た映画の中では、122.png 122.png 122.png 大変 ガッカリ!なものでした。
それは、木村君の問題でもなく、他の出演者の人たちのせいでもなく、
ただただ、監督とその編集の問題だと感じたのだが。。。。。

とにかく無用に、やたらと長い。長すぎる。
2時間半もの間、斬って斬って斬りまくる ぶった斬りシーンの連続。
それも、相当やばく エグイ 残虐的映像。

編集で、思い切ってカットしてまとめれば良かったかも知れない。
三池監督が、木村君を好き過ぎて、木村君の熱のこもった太刀のシーンの
何処の場面もカットし辛かったのかも知れないが、
それならそれで、もう少し内容を膨らませるというか、
もうひとヒネリ深めて欲しかったと思う。
エンドロールに流れる音楽がとても良かった。

それでも、お時間と懐に少しの余裕がお有りであれば、
是非、会場に足をお運びいただければ…、と思います。
(息子たちに言わせると、「かあさんの、木村への目線は家族か親戚のおばさん的だね。)
・・・とのことですが。。。

そして、
ある時、あることから、不老不死の身体となる万次、、、、、
死ねないことの辛さ、
生き続けなければならない過酷さ、
その命、誰のために使うーーーと、問うのだが、
。。。。。。。
主人公万次の言葉を借りて言えば、
「死ねるおめぇらは、幸せもンよ。」
。。。
「不死身って、死ぬほどめんどくせぇ!」

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by h-c-c | 2017-05-08 11:12 | Comments(0)
「今、ここ」に居ない。
「現実を直視」していない。
何を見、何を聴き、何を感じているのか。
何を考えているのか。
・・・?・・・
・・・わからない・・・。

「現実を直視していない」と云われる場合、多くは、自分が見たくないものを避けている。
人は、誰もが自己流の見方をしている。
当然ながら、聞き方においても同様で、
今、ここで起きていることを、そのまま直視、直聴はできない。

現実と向き合う、ということは、そもそもが至難の技かもしれない。

フッサールの提示した「現実」の知覚。
デカルトの云う「感覚」に疑を問いかけたその「現実」とは・・・。

心理学をベースに展開するカウンセリングの根底には、
素地となるべき哲学が生き続けている。


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by h-c-c | 2017-02-10 23:34 | Comments(0)

この世界の片隅に…

静かな、それでいて ひたひたと心に迫る映画でした。
そして、そこに描かれていたのは、紛れもなくこの国にあった事実です。
広島と呉を中心に描かれていますが、多くの人の生活は、
おおよそ それほどの違いなく、誰もが営んでいた日常です。

私の母は、海辺の町に生まれ幼少期をそこで暮らします。
実家は、時計屋さんでした。
豊に暮らしていたそうです。
父親を亡くし、戦争で思いもよらぬ人生を余儀なくされ、母親は右腕を失います。
まさに、この映画「この世界の片隅に」と重なる場面が多かったです。
それだけに、身につまされる感情が動きました。

高齢化が、社会問題のように扱われていますが、それはどうなんでしょう???
今、80歳を超える多くの人たちにもあった青春時代は、
戦争と云う特別な時間の中に翻弄されました。

昨日も母と色んなお喋りをしながら、大声で笑うことも出来ました。
生きていると云うこと。
今、共に居ると云うこと。
その事が、こんなにも不思議で、幸せだなんて・・・嬉しかったです。



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by h-c-c | 2017-02-07 19:17 | Comments(0)

今、また再びのスタート

春休み。
卒業、退職、退任、、、、、。 
入学、入社、進学、進級、、、、。

あらかじめ決められた枠組みの中での流れに添ったけじめではなく、
成人し、熟年となり、自らの意思決定で選択肢の広がる時期に、
「今、また再びのスタート」に際して、あなたは何を選びますか?
自分の声は、心の底からの願いは、・・・「何」なんでしょう?
限られた時間、限られた今生の命。
自身が、生き置かれた定めの環境には、当然ながら抗えないものもあります。
しかし、境遇そのもの以上に自分自身を縛っているものはありませんか?
自分自身の思い込み、偏った思考、柔軟性を欠いた自己概念。
針ほどの一点でもいい、そこに小さな穴が開いたとしたら、
いえ、小さな小さな一点の風穴を開けることを自らが起こせば、
光は必ず漏れ入って来ます。
その光を拠り所に、私たちは、今こそペルソナを外して、
本来の自分自身が求めて止まない声の導きのもとに、
自分の人生を生き切って行くことが出来るのではないかと考えています。
あなたは、何が好きですか?
あなたは、どんな生き方をしたいですか?
あなたは、誰と生きたいですか?
あなたの魂は、今、喜んでいますか?

選択肢は限りなく広がっています。



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by h-c-c | 2016-03-06 09:49 | Comments(0)
・・・・・「生きる」ことは「学ぶ」こと・・・・・
・・・「 学ぶこと」は ・・・「気づくこと」 ・・・

上記は、今年の年賀状のご挨拶に、使わせて頂いた私なりの考えですが、
そのために、
21年目を迎えたHCC当センターでは、従来通りの講座だけでなく、
今年度、更に新たな試みのもと、さまざまにユニークな講座をご用意いたしました。

そのお知らせの核ともなるHP。
トップページに若干のイメージチェンジを加えて、やっと更新071.gifできました。
是非とも隅々までご覧いただいて、楽しく学べる人気の講座にご参加くださいますよう
重ねてご紹介、ご案内申しあげます。

・・・それにしても、今年は幕開け早々ザワザワし過ぎですね。
政治、経済、科学技術、、、、芸能、スポーツ、マスコミ界。
私自身の極々身辺周辺は、お陰さまで特別異変はありませんが、
国内外、とりわけ金融界における行き詰まり感は、近い将来我が身に降りかかる
大きな問題として、生活そのものに影響を及ぼすことでしょう。

徳分が低い、と云うことは、その根底になる教育、「知」の力が弱いからに他なりません。
様々な分野の頭に座る人たちに、この徳分が低いとすれば、
これは、人類の将来を展望するに当たって、何より大きな不安材料であろうと感じています。

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by h-c-c | 2016-02-15 09:24 | Comments(0)

表裏一体の世界観

<・・・昨日からのつづき・・・>

そうは言っても、全ては表裏一体のうちに存在する。
教える者と教わる者とて、その関係性に変わりはない。
教える側は、教わる者の姿の中に自分を観る。
それは同時にそこに在り、この瞬間の関係の中で気づくことは山ほど有る。

たまたまその時、教える立場にあるとしても、
やはり私自身が、果てしない学びの途中に座する者でることも事実だ。
私は、基本的に学ぶことが好きである。
それがたとえ遅々たる歩みであろうとも、昨日まで分からなかったことが、
今日、分かるようになったと感じられる瞬間。
「アハ!」と腑に落ちるあの感覚。
自らに気づきをもたらす時に味わえる恍惚の一瞬。
学びが頭ではなく、血肉と成って身体に宿る、あの感覚だ。
生きるための力となる学びだ。

それは、教科書じゃない。
暗記じゃない。
左から右へ、レポートを書き写すことじゃない。

丸腰で生きる私たちの人生の旅路の中で、
いつ何処から、人生の難題に切り込まれてきたとしても、
身を処し、自分としての在りようを誤魔化すことなく生き抜いて行くための術となる。

私たちは、今、様々なカウンセリングの諸理論や心理学を、
その為にこそ学び合っているのだ。
ただ単に頭でっかちに、暗記の知識のためにむさぼっている訳では
決して、決して、断じて、ない。

ましてや、資格や肩書のために学んでいるのではない。
その事を理解してもらえたら、
この学びほど人生に於いて魅力的なものは無いだろうと、
私は考えるのだが、如何だろうか。。。。。


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by h-c-c | 2015-11-11 16:27 | Comments(0)
今の私は、私が想い描いていた時間の過ごし方をしていない。
私の方が、時間に振り廻されている。
時間は容赦なく私に降り注ぎ、過酷に私を追い立てる。

やるべきこと、やらなければならないことが多過ぎて、
ここ最近、深夜2時過ぎてから就寝する日が続いている。
それでも、何十年もの間に習慣化し、身体が覚えたサイクルで、
朝6時には必ず目が覚めてしまう。
一日が長い。
しかし、昼間、ボーっとする。

人によっては、これを充実していると言うのかも知れないが、
私は、絶対に嫌だ。
時間に振り廻されている感覚が否めなくて、虚脱感がある。

仕事も、プライベートも、母に関わる時間の過ごし方も、
私の体調や、私の希望にお構いなしだ。
何だか擦り減っていく感じがする。

歳を重ねたら、ゆっくりと自分で自分の時間を組み立てて、
ゆるやかな時間に身をゆだねながら時を過ごしたいと、
ずっとずっと願っていたのに。。。。。

なぜだか日ごとに忙しく、慌ただしくなってくる。
何処でどう、何を間違えて、こんなふうになったんだろう???

もう少しのんびりしたい。。。。。
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by h-c-c | 2015-03-14 08:20 | Comments(0)
ヒトが生れて生きていく時・・・、
長いのか短いのか分からない時間軸の中で・・・、
私たちは、思いもよらない事に出くわすことがある。
生まれ落ちた国や時代は、その人生に色濃く影響を与える。
選んで生れて来たはずの親の下にもかかわらず、
子は親を忌み嫌い、反抗し、葛藤を抱える。
親は親で子育てに苦悩し、先走った不安に取り越し苦労の連続を生きる。

そして、、、しかも、、、
ある時、思わぬ形で、いきなり突きつけられる現実が我が身に降ってくる。

何で?
何で、、、私がこんな目に合うの?
私の人生にこんな事がプログラムされてたなんて知らなかった!?!
何で? ナンで??
嫌だ!こんな現実!!・・・と・・・、
・・・ついつい「何で?」を繰り返す。

自分に気に入る答えなど決して出るはずもない問い掛けを、
「何で?」 「どうして?」と、繰り返す。

しかし、

それが、人生。
それこそが人生。・・・・・・・・と、
云うことは、それは、決して私にだけ起こることではないと言うこと。
現れ方、見せられ方はそれぞれだとしても、
それは、その人になら超えることが出来るモノとして用意されている。

私たちは、いつも人生から試されている。
人生は―――――、
別の言い方をするならば、その人の、その人ならではの運命は、
人生の方から、いつも試し、仕掛けて来ては、見守ってくれている。。。
とでも言えるだろうか・・・。

それは、時に過酷で、逃げ出したい程苦しく感じさせることだとしても、
それでも、同時に、
人生は、私たちが自分から自分の人生を諦めない限り、
いつの時も味方でいてくれる。
人生そのものが人生の方から、私たちを諦めたり、見捨てたりはしない。

『問題は力』だ!と、私は常々伝え続けている。

生きていると言うことは、その連続に過ぎないし、
それを超えて行く感激を味わうためのものかも知れないとさえ考えている。
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by h-c-c | 2015-03-05 08:44 | Comments(0)

認知症の色々・・・

ショートステイに預けた時も、施設のヘルパーさんから、
「この状態で、よく自宅で看られてますね。」と、言われた。
母の認知症は、多動性と若干の攻撃性が含まれる。
物忘れは、確かにあるが、ゆっくり話していれば思い出すことも出来る。
年が明けたので、既に4年目に入ることになるが、
母の状態を私が初めて疑ったのは、2011年の2月頃だったと思う。
脳神経外科の外来から始まった。
CT.MRI.などの手段を用いて主治医から説明を求めた。
当初、先生も
「よくこの段階で気づきましたね。
今は、良いお薬もありますから今の時点から投薬を始めると、
進行は抑えることが出来ますから、気長に付き合いましょう。」と、言われ、
アリセプトから始めた事を今でもしっかり覚えている。
しかし、
西洋医学を嫌い、薬を嫌う母に、毎日の薬を続けることは、
それだけでも至難の技だった。
母には、薬が合わないこともあって、副作用の反応が強く出た。
お薬は、当時認可されていた4種類を全て試みたが、いづれも母には合わなかった。
パッチタイプのものも、ダメだった。
母は、試し期間を終えて、次の段階に行くと、吐き気が始まり、
食欲が一気に落ちて、胃腸障害が出た。
私も、医療のみに頼りたくなかったので、老人大学に通って、
母の好きなお習字や、俳句教室などで楽しんでもらおうとした。
本格的に極めた母のヨガ。
自然療法とヨガをこよなく愛した母だ。
30年近く続けている母のヨガは、そのまま続け、
インストラクターとしての指導も、出来るところまでは続けられたら良いと願い
地域の人たちと楽しんでもらおうとした。
でも、
やはり、
そのどれもが、困難となり、
近所の人や、老人大学の教室の人たちからも注意を受けるようになった。
結局、、、、、、、、。
結局、、、!!!である。
同世代の高齢者の人たちからダメ出しをされたのだ。

母の認知症の症状は、多動性である。
物忘れは、無論のこと、それ以上に多動が、一番の問題だ。
きっと、母も苦しいんだと思う。
その姿は、本当に可哀想で、哀れでならない。
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by h-c-c | 2015-01-28 22:35 | Comments(0)

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