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「原爆投下なんて、もう大昔のことなのに。」
「広島の人って、いつも平和、平和って、そればっかだよね。」
「もういいじゃない。とっくに終わったことなんだし。」
アメリカ人の講師を前に、遠慮な気持ちがあってのことだったのか、
それとも、
同じ日本に暮らしていても、広島、長崎以外の地域に住む人たちにとっては、
結局のところ、その程度の感覚しかないのか。
その言葉を浴びせられた時の私は、一瞬自分の耳を疑い、驚き、唖然とした。
そして、それは、その後私の中で、
悲しみとなったのか、怒りに変化したのか、未だによく分からない。
ただ、未消化なまま、私の身体の奥深くに、それは、確かに在り続けていた。
…だけど、もう、いい。
それも、これも、もう、いいと思い始めた。
連日のように報道される放射能汚染に過剰反応している様子を見聞きするにつけ、
何を今さらそんなことを。
と、正直ついつい感じてしまう。
あの、人為による原爆投下。
向う100年ペンペン草一本生えないと言われたあの広島の、
今のこの復興ぶりはどうだ。
被爆1世・2世の人たちが抱える不安や痛みは、なかなか理解されないけれど、
外的視覚的な都市作りは、眩しいほどに発展して来た。
干し草にセシウム。
牛一頭を丸ごと食べる訳じゃない。
もちろん、心配や不安は当然ある。
でも、だからといって、何もかも殺してしまったり、捨ててしまったり。
目に見えない。耳にも響かない。匂いも、感覚もない…放射能の恐ろしさはそこにある。
だからこそ、正しい知識が必要だ。
数字だけに踊らされない。一喜一憂、右往左往しない。
情報は、知識の上に取り入れなければ、いたずらに混乱を増すだけ。
他人事、見て見ぬふり、知らんぷり、…こんなことは、いつまでもは続かない。
いつの日か、全ては我が身に問いかけられる。
だから、もう、いい。
一人ひとりの、自分自身に課せられた問題に過ぎないのだろうとの思いに到り、
理由は、はっきりとは分からないが、
何となく胃の辺りにあった感情が薄らいでいく事には気づいている。

・・・おわり・・・にします・・・
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by h-c-c | 2011-07-30 22:30 | Comments(0)
どうするんだろう。
どうなるんだろう。
地震、放射能汚染、ゲリラ豪雨、竜巻、干ばつ、熱波。
円高、ドル安、ユーロ不安。
何もかもが不安定に揺れる現代の危機は、もはや日本国内に留まらない。
アフリカ、ソマリアの無政府状態のあの苦しさは、どう表現したらいいのだろう。
飢餓が続いてどれ程の時が流れていることか。b0122085_1731075.jpgb0122085_1734250.jpg








経済が行き詰まれば、その歪は当然ながら生活を直撃する。
雇用問題は、犯罪の温床となり治安の乱れは、
新たな人間不信に繋がっていく。
人は、食べ物だけで生きているわけではない。
精神的な繋がりや支え、充実感も欠かせないこと位、誰もが承知のことだ。
しかし、同時に、精神論だけでは生きていけない。
事あるごとに、想いは、マズローの人間の欲求階層に立ち返る。
良い意味で、もしくはその逆にでも、
「ルビコン河を渡る」勇気ある人材は、64億人の中に、本当に一人もいないのか?
待ち望んでいる。
祈っている。
名もなき微力な私には、祈るすべより他に、手立てを見いだせない。
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by h-c-c | 2011-07-28 17:10 | Comments(0)

ふる里は瀬戸の海

先週末は、早島から瀬戸大橋を渡って義母の傍にいました。
その前の週は、瀬戸内海に浮かぶ、鞆の浦にある仙酔島で、
日本ゲシュタルト療法学会の全国大会を行っていました。
そして、今日は、
しまなみ海道を渡って、因島の市民会館で講演の仕事をしてきました。
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今月の私は、
いたる所で瀬戸内海に抱かれた、幸せな月の中にいたと言えるかも知れません。
私のふる里は、山と川と、そして瀬戸内海という海に恵まれた「福山」です。
あなたは、「ふる里」って聞くと何を思い浮かべますか?
「海」って聞くと、どんな海を思い出しますか?
荒々しい日本海。
雄大な太平洋。
海洋国、ニッポン。と、言えども、思い描く海は、人其々に違って当然です。

私は、幼い時から、瀬戸内海を眺めて育って来ました。
南に広がる、明るく眩しい穏やかな、ゆったりとした、あの瀬戸の海です。

太平洋の海際で育った人が、瀬戸内海を見て、
「こんなの海じゃねーよ。」って、言いました。

どことなくのんびりしていて、
おっとり、ゆっくり、とろくさい私の陰には、
今日まで私を育んでくれた、
瀬戸内海のこの独特の風土が関係しているのかもしれません。
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「こんなの海じゃねーよ。」って、言われても、私にとっては大事なふる里の海です。

眞美子
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by h-c-c | 2011-07-27 20:23 | Comments(0)

愛は無限大

愛を惜しまないで。
愛を出し惜しみしないで。
無尽蔵に無限大に広がる愛を流していきましょう。
与え尽くし、注ぎ尽くしてもなお、愛は湧き起こります。
「私を見て。」
「私のことを、分かって。」
「私のことを、もっと大事にして。」
これらは、全て、愛は愛でも、奪い取ろうとする欲望の愛です。
そして、これらは、枯渇した自分へ向かう、我欲な自己への「利己愛」です。
そうではなく、自分に繋がる他者に対して、
丁度上流から流れ来る河の水のごとくに、
自然界から注ぎこまれる愛を、誰かのために流していきましょう。
この豊な喜びを知れば、欲しがるものはない事が実感できます。
今、ここに、こうして、この命の存在を許されている私たちは、
実はもう既に大きな愛の中に包まれているのです。
愛は、決して、そんなに安っぽくて、ちっぽけなものではありません。
愛は、果てしなく永遠であり、大きく暖かく柔らかです。
そして、その資質は、私たち誰もが一人ひとり皆、持ち合わせているものです。
目に見えないもの、耳に聞こえないもののなかにこそ、
大事なものが溢れています。

馬屋原 眞美子
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by h-c-c | 2011-07-26 17:35 | Comments(0)
中国の鉄道事故。その対応ぶりを見ても分からない。
あの国って、何が欲しいんだろう。
日本の天下り、企業との癒着、隠ぺい工作の慣習性。
この国は、どこに向かって行くんだろう。
b0122085_22573414.jpg…「国家」って一体誰のために、何のために、あるんだろう。
国民の命。国民の生活。国民の安全。
そんなことより、自分たちの私腹を肥やすことが何よりの関心事。
対外的なメンツの方が大事。
訳のわからない、取るに足らない妙なこだわりに、
自分たちが勝手にがんじがらめになって、
いつもいつも国民のことは後回しにする政治を司る盗人の輩。

「国」って、「国家」って、「政府」って、何のために要るんだろう。
誰のために必要なんだろう。

国民のことを大事に考えもしない国家なんて…何なんだろう。。。
やっぱり…、分からない。

馬屋原 眞美子
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by h-c-c | 2011-07-25 22:52 | Comments(0)
今朝、…あの日から18日振りに、やっと酸素マスクが外されました。
7月7日、事故に遭って以来、内臓破裂の手術後から、
生命維持装置を全身にまといながら、
一喜一憂の紆余曲折を経て、なんとか徐々に、
安定期に入って来ました。
昨日から今日まで、救急病院の一室で、私は義母の傍に居ました。
集中治療室からは出たものの、
まだまだ詰所の近くの個室で、体中のあちこちに管を繋いだままでいます。

父の時は、癌の終末対応として、
父本人の意思を尊重し、父と話し合いながら医療を進めました。
義母は、突然の交通事故です。
救急車で運ばれた後、私たちの元へ知らせが入りました。
その時、義母に意識は当然ありません。
何もかもが混乱と葛藤で気持ちの整理もつかないままに、
私たち家族に突きつけられ、迫られる選択の連続でした。
そうした中、
当の本人である義母自身は、どうなんだろうと、考えてしまいます。
少し動かすと、とても痛そうに顔をしかめます。
管を外すと危険なので、両手はベッドに固定されています。
ずっと口を開いて動かしてはいるのですが、何を言っているのかは分かりません。
「生きている」という感覚は、どのようにして理解できるものなのでしょうか。
義母が、確かにここに居て、自力で必死に呼吸していることは、
痛々しい程、よく分かります。
あれ程元気だった義母が、しっかり者で勝ち気だった義母が、
86歳になって、静かに余生を送る頃に、突然の交通事故に見舞われたのです。
今日もまた、さまざまなことを考えさせられた一日でした。
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そして・・・、
「私」は、
この私の「身体」そのものでもあり、
私に湧き起こる私固有の「感情」でもあり、
千路に巡り、迷い考える「思考」そのものでもあります。
何もかも、それら全てのあらゆるものを含み包んで、「私」と言える…、
そんな気がしています。
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by h-c-c | 2011-07-24 17:16 | Comments(5)
慌ただしい過密スケジュールの日々の中で、
溜まった疲れが取れない私がいます。
身体が疲れているのです。
そうです。  私は、「身体」を持っています。
しかし、「私」は、身体ではありません。
身体は、私が、今ここに、確かに存在していることを証明していますし、
私は、この身体と共にさまざまなことを体験しながら生きています。
しかし、身体がそのまま「私」ではありません。
「私」は、身体ではありません。

私は、考えます。考える力を持っています。
「知識」「知性」「思考」。
私の考え方は、紛れもなく私のものであり、私特有のものではありますが、
それでも、やはり、「思考」がそのまま「私」ではありません。
「私」は、思考ではありません。
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そして、私は、感じます。
思考で分別させたつもりでも、それを超えて湧き上がる「感情」を持っています。
他の人とは明らかに違う、私であるが故に、反射的に湧き起こる「感情」です。
それは、時に、言葉に置き換えられないような、
言葉以前に在るものであったり、
言葉で語りつくしても尚、胸の奥に残ることもあります。
しかし、その「感情」自体が、そのまま「私」では、…やはり…、ありません。
「私」は、感情ではありません。

では、「私」は、
「私」というものは、一体何処に居るのでしょうか。
「私」とは、
それら全てを含めて、それらに気づき、見定める主体、
「意識の中枢」をなす、それそのものなのでしょうか。
そうであるとするならば、意識に上らない、気づきの対象にならないものは、
「私」ではないのでしょうか。
確かに「私」の中に在るはずのものなのに。

色即是空。 空即是色。

…「あなた」は、誰ですか?…
「あなた」は、何処に居ますか?

馬屋原 眞美子
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by h-c-c | 2011-07-22 20:38 | Comments(0)

土用の丑の日

今日は、丑の日。
いつもと、チョッと違うウナギ料理を創ってみました。
洋風寿司味の丼にしてみました。
これが、結構好評で、「何?これ?珍しい。」
              「美味しいね、これ!」って。
・・・あぁ~、045.gif よかった。。。。。045.gif

人は、皆、結局のところ、さまざまに起こる出来事を前に、
自分流なやり方で調整をし、折り合いをつけている。
その人にとっての 「調整の仕方」 は、人の数だけある。
その人にとって、一番やりやすい得意な方法で調整しているにすぎない。
たとえ、それが、時として、異常性として表現されようとも、
自分自身にとっても、さして居心地の良い結果でなかろうとも、
なぜだか人は、馴染んだその人流の調整の仕方を変えようとしない。

決めつけない。
固定化、固着化させない。
ウナギと言えば、蒲焼き、どんぶり、鰻重、、、。
ウナギを使った他の調理法を工夫、挑戦してみる。
そういった意味からしても、料理は、さまざまなアレンジ、工夫、挑戦が出来る。
そもそも食材そのものが、まともなら、よほどのことがない限り、
美味しい結果になるようになっている。
安心して調理すればいい。

その人が、健康体であるのなら、大丈夫、そんなに心配し過ぎなくても。
その人は、その人の力で、必ず立ち上がる。
傍に寄り添い、見守る人が、一人でもいる限り。
自分自身に対しては、自分を信頼できるなら、
いくらでも変化、変容、チャレンジできる。
手慣れた馴染んだ調整の仕方だけでなく、今までと少し違った視点から、
創造的な独創的な調整法を編み出してみる。
アウェアネスの重要性、そこから広がる選択肢の増加。
増えた選択肢から自由自在に在れる自分を。
柔軟な心と頭と身体。
変幻自在の自由度の高さが、
人生の広がり豊かさに通じていくのではないかと考えている。
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by h-c-c | 2011-07-21 20:52 | Comments(2)

感情表出の底にあるもの

「怒っている」人がいます。
怒りを顕わにし、怒鳴っています。
この人は、本当に怒っているのでしょうか。
そうであれば、全く問題はないのですが…。

「怒り」の表出の場合、
実は、表現されたものとは違う感情が隠されていることがあります。
それは、
「寂しさ」であったり、「悲しみ」であることさえあります。b0122085_17305828.jpg
「支配欲」によるものであったり、
「プライド」という言葉に裏返された
「劣等感」「嫉妬心」である場合も珍しくはありません。
その怒りは、純粋な「怒り」ですか。
「寂しい」時には、寂しいと言いましょう。
お願いしたい事があるのなら、依頼の言葉で伝えましょう。
「怒って」いるだけでは、何も伝わりません。
さらに、
「怒り」は、適切な時に適切な形で表現されなければ、
「悲しみ」となって深く沈んでいきます。
本当は、怒りであるはずなのに、形を歪めた「怒りの感情」は、
外界からの刺激に触れるたびに、『涙』となって「悲しみ」として表現されます。

よく怒る人は、実は寂しい人なのかもしれません。
すぐ泣く人は、もしかしたら怒りを深いところに押し殺している人かもしれません。
あなたは、どうですか。
あなたの周囲に心当たりの人はありませんか。
そして、わたしは・・・自分自身は、どうでしょう…。
その感情は、本物ですか?
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by h-c-c | 2011-07-19 22:00 | Comments(0)
福山市鞆の浦、仙酔島で三泊四日のワークショップ大会が今日閉会しました。
気づきの多い四日間でした。
多くの人の愛と、心配りと、思いやりに支えられて、
私は、今日もここに居ます。
ゲシュタルトは、決して特別なことではありません。
日々の生活の連続性の中で起こってくる
さまざまな出来事を、有意識に浮かび上がらせ、
「気づく」という行為の下に、
一つ一つを完結させていく行為そのものです。
忙しい毎日、
手慣れた習慣的に繰り返されがちな無意識な行為を、
せわしなく流れる時の中で、意識的に焦点を当て、
「気づき」の上にのせて、選択し、行動化する…と、いうことです。
言葉にすると、ひどく堅苦しい感じを受けますが、
小さなことでも、一つずつ完了させながら、
気づきながら進むことに意味があるのだろうと、
私としては、考えています。

ゲシュタルトでは、身体感覚を大事にします。
それは、
身体感覚と本人の内側に起こる感情は、
直結していると、捉えているからです。
しかし、それは、
決して中間領域と呼ばれる「思考」の世界を軽んじているわけではありません。
考えることは、とても大事です。
「考える」ことを、振り落として感覚的な気づきだけに従っていると、
これは、これで、バランスを欠いて新たな問題を生みだします。
感じましょう。
気づきましょう。
そして、考えましょう。
それから、行動しましょう。
大事な答えは、あなたの中に、自分自身の中に「在る」のですから。
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by h-c-c | 2011-07-18 18:56 | Comments(0)

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