「自由」は尊い。
「自由」を奪われる苦しみは耐えがたい。
しかし、「自由」を御旗に掲げる「民主主義」は、
決して、大衆迎合主義ではないはずであろうと考える。
情報、金融、思想、旅行にしても交友にしても、
現代に於いては、言葉の壁さえなければ、
人は互いに親しく融和出来そうに思えるのに・・・。
なぜだろう???
グローバル化が進み、地球が、世界が小さくなった感さえする今、
個人個人の内側に、強いナショナリズムがうごめき出すのは…なぜだろう???
先の見えない閉塞感。
モヤモヤした不公平感。
リアルに進む二極化に、諦めるに諦めきれない腹立たしさ。
やるせない個人個人が抱える抑うつ感。
近代化が進み、清潔に便利なはずの、一見快適そうな生活スタイルの中にも、
打破しきれない独り一人の人間の心が抱える虚無感は、
なぜこうも拭えないのだろうか?
世界の彼方此方だけでなく、日本国内に於いても、
激しさを増し始めたポピュリズム。
結局のところ、人間は誰もが我が身が最も愛おしいからだろう。
自分を守るために、自己正当化のために、
他者を否定し、批判し、切り捨て、排除し、叩きのめす。
その姿に美しさは無い。
そんな言葉の中に教養の香りはしない。
今こそ、私たちは、自分自身の主柱をしっかり立てなければならない。
どんな考えかた、思想、行動にも、
そこに見え隠れする矛盾のベクトルを見定め、
その上で、尚、
その上で、だから、、、
「わたし」は、こう考え、このように行動すると言う、
主体性を失わない生き方が大事になるのではないかと考えている。